この国は豊かになった。心はどうか。

この国は豊かになった。心はどうか。

親が老いたら養老院に入れて、それっきり。子どもが親の棺桶も拝まない。そんな時代が来つつある。

・・・・

これは平成27年1月17日の朝日新聞「be」映写室「楢山節考」の記事中の今村昌平監督の言葉である。

楢山節考

 

これまでは他人の問題として人の終末を考えたり、仕事の一貫として体験してきた。

当初、年老いたら特別擁護老人ホームが理想と思っていた。

しかし、仕事で現実に「特擁」などに行って見ると何かこころの中に整理しきれないものが残った。

また、当然に当事者には「特擁」がよいと思っていたが、自宅に帰りたいということを訴えていることも聞いた。

そして、自分の親の問題で市内の老人施設を複数見学をした。

きれいな施設で担当者もやさしそうなところもあった。

寝たきりの高齢者がいる施設もあった。

ある施設では親に十分に理解も得ず、施設に入れて、高齢者がいつ子どもが迎えに来てくれるかと訴えているという話しも聞いた。

そのような体験を踏まえ、

昨年12月、私はできるだけ親との同居を図るのが理想であり、施設は最後の選択肢という考えに固まった。

そんな体験を踏まえ、冒頭の今村昌平監督の言葉がずしりと入ってきた。

この国は豊かになった。心はどうか。

貧困な時代、みんなか生きることができない時代には、「楢山節考」の世界があったかも知れない。

その限りで「親捨て」は歴史上の問題として理解できる。

豊かになった今日、「親捨て」などは言語道断である。今村監督が指摘するように「特擁」などは、現代の「親捨て」「楢山節考」なのであろうか。

高齢になった親の世話を、日常生活の外にしていいものだろうか。

いずれにしても、貧しい時代なら、わかる。

 

豊かになったものはなんだろうか。こころではなく、煩悩であろうか。

文明、文化が発達して現代の豊かな時代になっても、親の人生の終末は子どもに捨てられるとしたら、なんのための文明、文化なのだろうか。

もし、老人に意思と力があったら、「親不幸もの」と断罪し、子どもを家から追い出したろう。

 

ときどき、親の介護のために、仕事をやめたり、場合には離婚という話しを聞く。

介護保険制度の趣旨は、そんなに無理をしなくてもいい筈た。無理をしないために介護保険がある。

 

施設とか、介護保険が利用できるのに、それでも親の介護のために、仕事をやめるのは、今の私は理解できる。