名鉄瀬戸線 瀬戸駅
連休は所用で帰省した。
瀬戸駅から5分のところで生まれた。
いつも瀬戸駅を利用していた。
平成9年発行の下記の本がある。
瀬戸市はこんな町だった。
私が生まれたころも、こんな町のイメージだった。
働くまちだった。
小さいころのまちの休日は,土日などなく、毎月、1日と15日だった。
共働きのまちだった。
まちの大半の人たちは陶磁器に何らかに関係していた。
私が郷里を後にした昭和45年ころの瀬戸駅はこんな状況だった。
2階が子どもにとって敷居が高いレストランだった。
おそらく、母にこの駅で見送られて上京したのだろう。
私の家から東に見える猿投山。その向うに何かがある。
それを見たくて
この瀬戸駅から、夢そして不安を抱いて、私の新しい人生が出発した。
当時の電車はこんな具合だった。
電車のドアは、手動だった。
瀬戸から名古屋まで20キロだった。
瀬戸電は、今から思うと私にとって銀河鉄道だったろうか。
写真集を見ていたら、母が写っていた。
平成8年12月のある日ということであるから、母が77歳の時だ。
友達と輪になって楽しいそうな雰囲気だ。
最後に荒涼とした風景をお見せしよう。
(瀬戸の古陶磁より)
実は、この場所に中学があった。
中学卒業後は,親を楽させるためにエンジニアになろう。そのために進路は工業高校と決めていた。
その後は、当然に地元の企業に就職するものだと思っていた。
この進路の計画に対し、中3の担任が私の中に何かを見いだしくれた。
将来エンジニアになるとしても大学に行くことを進めた。
大学などは雲の上の,よその人のことと思っていた。
担任の助言で進路を工業高校から普通高校に変えた。
担任のアドバイスによって母子家庭の私でも大学に行っていいのだと自己肯定感が育まれた。
安藤先生は、私の人生の恩人の一人だ。